誰の問題として捉えるのか

こんにちは。シラです。
今日も真我の実践に焦点を合わせて毎日を過ごすためにブログを書きます。
お読みくださりありがとございます。

昨日、息子の術後の診察で朝から息子と静岡市へ行き、帰ってきてから夜に西尾友の会へ参加する予定でした。

病院は予想通り時間がかかりました。お腹の空いた息子を連れて用意しておいた楽しみ “清水港で海鮮丼のお昼ご飯“ を遅い時間に満喫して帰宅。移動と待ちでなかなか疲れました。

連日の疲労も重なり、ちょっとだけ友の会欠席が頭にちらつきましたが、「決めて→やる」を崩しちゃいかん。試されてるんだ。と思い直し、帰り道の高速を走りました。

渋滞に巻き込まれながらもなんとか友の会へ行ける時間に帰ってくると、仕事を終えて下の娘を保育園に迎えに行って帰宅した妻とちょうど一緒になりました。

そして出かけようとする僕にストップをかけ、心のゴミを吐き出し始めました。

「ねぇ、今日くらい家に居ようとか思わないの?」

「週末もずっと(※正確にはずっとではなく妻の主観)家に居なくて、また今日も出て行くの?」

「わたし、もうフラフラなんだけど」

「なんにも考えてないでしょ…。もっと考えてよ!!」

僕自身、まあまあ疲れてて、妻に言われなくても今日は家でゆっくりしたいという気持ちがあって、それを(これは決めたことをちゃんと実行できるかどうか試されいる。踏ん張らねば)と思っているところへ、心を折るダメ押しの妻の言葉の連発でした。

妻の言葉を聞きながら、

(そうやっていつも俺がやろうとしてることを足引っ張ろうとする)

という思いが浮かんできて…。

(いかん、いかん。表面に振り回されてる。。。)

そう気づいた直後に

(これはメッセージだ!)

と直感しました。

どんなメッセージだろう?

何を問われてるんだろう?

自分へ問いかけたらなんかわかりました。

(あ!これも自分の問題だ)

「妻がいつも足を引っ張る」という相手を責める、相手の問題とするんじゃなくて、そう言わせてしまっている自分の問題なんだと気づいてしまいました。

予め前の週の月曜日からずっと夜家に居ないことは分かっていたし、なぜそういう予定を入れたかは自分のことだから自分は分かってるけれど妻はそんなことまでは僕が言ってないから知る由もない。フラフラになりながらも友の会へ行こうとする意味、「決めて→やる」をやるんだということ気分や状況で決めたことをやらないという選択をしたら、これからもそういう選択をしてどういう未来になっていくかということも、まったく何も伝えず、ただただ

「疲れたし今日はちょっと…とも思うし、お前が言うこともよくわかるけれど、言ってくる」

とだけ言って出かけようとした、僕の準備不足。今までのパターン。妻に説明したって理解してもらえない、「はぁ?」といわれるという思考パターン、クセがでてるんだ。そう気づきました。

そこからでも、「今日くらい家にいて子どもたち見てよ」と言う妻を振り切って友の会へ行くこともできたけれど、止めました。
自分の問題だと分かったら、もうそれだけで今日は十分だとなってしまいました。

友の会で話したかったことをグループLINEで投稿だけして魂参加しました。

友の会に実際には行けなかったけれど、大きな発見でした。

「いつもそうやって足を引っ張る」と相手の問題とすることもできるし、「いつもそう言わせてしまっている」と自分の問題とすることもどちらも選択できる。相手の問題としてしまったら相手とは対立・分離、自分の問題としたら改善できるならば自分の問題とした方がいいと捉えて、自分の問題と捉える方を選びました。

結局のところ、「世界をどう捉えるか」で全然変わってきちゃいますね。

昨日のケンカで、妻が一番身近にいて鍛えてくれていることを、またまた分かった一件でした。