命が懸かっていることを忘れてる

こんにちは。シラです。
今日も真我の実践に焦点を合わせて毎日を過ごすためにブログを書きます。
お読みくださりありがとうございます。

手放す

よく、執着を手放せと言うが、そう簡単に手放せるものではない。
強引に手放そうとすると、同時に大きな抵抗が生まれ、より執着してしまうのだ。
そうではなく、執着して握っているモノよりも、もっと価値のあるものを発見できたら、自然と握っていたものを手放せるのである。
者やお金にどれだけ執着したところで、自分の命には代えられない。
人が、命そのものでもある『真我』に目覚めるとき、その大いなる愛そのものの喜びの体験をし、「お金もモノもプライドも、全て真我の代替品を追い求めていたに過ぎなかった」ということに気付き、執着していたものを自然に手放せるのである。

佐藤康行「図解 神のメッセージ2」82頁

2歳の娘がiphoneやメガネ、PCなど触って欲しくないものを手にしているとき、無理やり手放させようとしても「いや!」と怒って手放さないけれど、それよりもっと魅力的なおもちゃを「どうぞ」と渡すと「ありがと」と言ってポイッと手放す。

娘が触って欲しくないものを手にしているとき、いつもこの「執着を手放す」ページを思い出します。

では自分はどうか。

「変わりたい」とアクセルを踏みながら変わるのが怖くてブレーキも踏んでいる。現状をもっと変えたいと思いながら現状を維持しようともしている。こうなりたい、ああなりたい。こうしたい、ああしたい。自分の思ってる変化はしたいと思いながら、それ以外は嫌だと拒否をしている。

良いとこどり。

今日改めてリライトをしてみて、毎日毎日命が懸かっていることを忘れてるなと思いました。今までそうだったから明日が来ることが当たり前になってる。今まで明日が来ない日はなかったからこれからもずっと明日が来ると思い込んでる。

4年くらい前に状況もココロもズタボロに感じてたとき、なんとかそこから抜け出したくて引き出しの奥にしまい込んでいた営業プログラムをとり出し必死に聴きながら、1つ1つ取り組みました。
毎朝鏡の前で今日が人生最期の日かもしれない、と思いながら。

今年の2月に覚悟が全然なかったことに気づいた。気づいたけれど、気づいただけ。全然まだまだ覚悟ができていなかった。

夏にN川さんとやりとりしてて、自分でも気づかず何かにずっとフタをしてることに気づいた。フタをしてることに気づいたけれどそれがなんなのかわからないまま。

この前、モチベーションセミナーの音声を聴いて「何を求めているのか?何をしたいのか?」自分に問われて、ズドーンとダウンした。それ以来ズドーンとしたまま。

実践プログラムvol.10で「真剣勝負で命懸けで来なさい」という話がある。命懸けで空想の考え方をしたって全く意味がないって。これはまさに僕に言っている。

まだまだ全然命懸けじゃなかった。
真剣じゃなかった。

ずっとスタートラインに立ててなかった。