おはようございます。シラです。
今日も真我の実践に焦点を合わせて毎日を過ごすためにブログを書きます。
お読みくださりありがとうございます。
業というフィルター
人は、他人の悪い噂を聞くと、その人のことを悪い人だと思ってしまう。
うわさ話や評判をフィルターにして、人を判断してしまうのだ。
かけるフィルターによって、ものの見方が変わるのである。
もし、フィルターが明るく輝いたものになれば、ものごとを明るく捉えることができ、人生は明るくなるのだ。
ほとんどの場合、自らの先入観や観念、そして業というフィルターが邪魔をして、ものごとを歪んで映し出しているのだ。
それが、人生を狂わせているのである。
フィルターを磨いて透明にすることだ。
透明なフィルターは、愛のフィルターだ。
愛のフィルターを通して、価値判断を下すことが大切なのである。
佐藤康行『図解 神のメッセージ』P32より
幼い時の記憶。
それって幼かった時の狭い視野でしか捉えきれなかった、出来事であって決して全体と捉えていないな。
「三つ子の魂百まで」というけれど、そういう狭い視野で捉えた記憶が積み重なって、顕在意識では忘れてしまっても潜在意識に蓄積されてフィルターとなり今のものごとを捉えている。
忘れてしまいたい葬り去りたい嫌な記憶も出来事のほんの一部しか捉えていない。
「郡盲象を評す」
「星を顕微鏡で見る」
幼かった時だけでなく今もそうだ。
ほんの一部しかとらえていないのにそれが全てだと思ってしまう。
それが全てだと捉えるか、それが全てではないと捉えるかだけでも全然違うだろうなと思う。
より全体を広く捉えるには高いところから見るんですね。
そして五感があるがゆえに絶対に全てを捉えきることはできないから、佐藤先生は「前提」という言葉を使っているんですね。
2歳の娘を見ながら自分の幼い頃の記憶を思い出してて、そんなことを思う日曜日の朝でした。