天命の発見ファシリとその後

こんばんは。シラです。
今日も真我の実践に焦点を合わせて毎日を過ごすためにブログを書きます。
お読みくださりありがとうございます。

昨日名古屋で行われた天命の発見ファシリテーションセミナーに行きました。

僕が遠慮している、思いっきり出せていないということと、父の姿が重なって、人間関係の原点がお父さんとお母さん=両親であるという話が「うわ、ほんとだ」と驚きました。
遺伝してる。

また、ついにその域(ゲイ花吉田さんレベル)まで達したか、、と思ったのですが、初めて講座中にウトウトして意識が何度も飛んでました。
瞑想以外でははじめて(笑)

父、母、おじいちゃん、おばあちゃん、、
うわーっとつながるご先祖様。
膨大な数の人たちが応援してくれていて見守ってくれていること。
いわゆるタテの世界。

ああ、これがバックモチベーションだ

というところが既に腑に落ちていたと思っていた以上に腑に落ちました。
これはすごいと感じました。

自動書記状態で書いたけれど、講師に持っていくときに、すでに腑に落ちているというか当たり前に思っていて、浅い頭の理解で書いているような気がしてなりませんでした。

頭で書いているのか深いところから湧き上がって書いているのか…

よくわからず。

でも背中をさすられると、何か暖かくてみんなが応援してくれているような感覚がありました。

もうひとつ。

「いいとこどりをしない」、「全自動」ということが浮かびました。

僕はいいとこどりをしていました(います?)。
いいとこだけ欲しい。
いいとこだけ受け取りたい。

だけどそうじゃないんだ、ということ。

一見、いいと思われることもそうじゃないことも両方受け取る。向かっていく。
あの一番つらかった時期、出来事が一番の協力者だったって経験から、この今目の前に起こる出来事が、起こったこの瞬間は自分にとって悪いと思えたとしても本当に悪いかどうかは定かではない。

こうなりたいこうでありたいと理想を描くと、その理想から外れることはよくないことと捉えてしまう。
理想というか自分にとって都合のいいことだけを受け取りたくなってしまうという意味ですが。

そうじゃないんだ、ということを思いました。

目の前に起こる出来事はただの出来事でそれに良い悪いの判断をしているのは自分。過去の記憶というフィルターを通して判断をしている。
だけどそんなものはない。
それは我、業、カルマ。

全自動というところまでは腑に落ちきっていないけれど、すべてを良きこととして捉えて判断行動をしていけばいいことがちらちら見えました。

・・・・・・

タテの世界、タテのつながりとバックモチベーション。

いいとこどりをしない。
すべて良きこと。
全自動。

これが昨日の収穫でした。

天命の発見、これ、多分ですが、僕がガツーンと衝撃を受けた音声モチベーションセミナーなんじゃないかと思いました。
僕のテーマなのかな、、。

そして今日。

なぜだか朝起きてから

(今日は1日「真我の実践」を唱えよう。「真我の実践」を唱える1dayにしよう)

と思って、いつも以上に「真我の実践」を心の中で唱えることを一日意識しました。

普段と変わらない一日でしたが、何か大きな視点から目の前の出来事を受け止める自分だったように思います。
結局何が言いたいかと申しますと、いいと思われること悪いと思われること全部含めて頭で考えるのではなくて感覚としていい感じ、というところです。んーーー。