“もともと一つ”だし、“またいつかは一つ”

こんにちは。シラです。大ばあちゃんの葬儀が終わり、今日からいつもの毎日に戻っています。今日も真我の追求と仕事の実践に焦点を合わせて毎日を過ごすためにブログを書きます。お読みくださりありがとうございます。

しかし、それでも人によって違いますから。「自分はこんなことで腹が立たない」と思っていても、他の人は腹が立つかもしれません。

ですから、その状況というか、場面場面に応じた部分でやるしかないわけです。ただし、男性と女性ではやはり違うわけです。私も両方とも部下として指導してきましたけど、やはり違います。良い悪いじゃないんですね。男の場合はある程度叱ったり文句を言っても良い場合が結構あるんですね。

だけど、女性の場合は扱い方が男性と同じというわけにはいきません。やはり細胞が違うみたいですね。バーンと言ってしまったら、案外根に持たれたりする場合があったりします。ですから、扱い方が違うわけです。もちろん、男にしてもそういう男はいます。男、女という分け方は一概にはできないけど、でもそういう場面が結構多いです。

ですから、女性の場合は、褒めるなり、良いところを認めてあげるなりして指導していった方が無難だと思いますね。もっとも、男もその方が無難なんです。

でも、本当に真剣にやっている人間の場合は、むしろびしっと厳しくした方が、生まれ変わったように素晴らしくなることもあります。そういうケースもずいぶん私は見てきています。

女性にしても、本当に真剣にやっている人には、ビシッとやった方が良い場合もあります。

ただ、ちょっとアルバイト的にやっているという人にそれをやっても、あまり効果はないか、マイナスになってしまう可能性があると思います。真剣に、「これで私は家族も養って、これで生き抜いていくんだ、どんなことがあっても!」という人には、ビシッとやった方が効果のある場合があります。でもそういう人は現実的には少ないです。

ポイント 部下を育てるコツ

1)「この人についていこう」と思ってもらうこと

2)ある時期が来たら注意すべきところは「ビシッ」と注意する

3)手綱を緩めていく

まず、部下が入ってきたら、「この人についていこう」と思われることが大事なんですよ。「この人なら間違いない」と。それが一番目。でも、それだけじゃなダメなんですよ。ある時期になったらビシッとやるんですね。ビシッと注意するところは注意するんです。

そして、甘くないよというところを見せるわけ。それが二番目です。

そのことによってピシッと引き締まるわけです。そうすると「あ、この人は私の上司だ」ということが明確になって腑に落ちてきます。

もちろん、そうするためには、叱り方が大事だし、またそのフォローが大事ですけどね。そして、今度はまた手綱を緩めていく。これが三番目です。大体このパターンで行くと、上手くいきましたね。

だけど、最初から「この人のためについていこう」なんて思ってもいないのにバシバシ厳しくやったら反発されて、全然うまくいかなくなります。かと言って、最初から甘くばっかりやっていてもダメだしね。仕事ですから。やっぱり厳しさというのが必要ですから。そんなパターンで部下を育てた時、ほとんど上手く行っていました。

佐藤康行「究極の営業プログラム」より

昨日書ききれなかったことから書いていきます。

お通夜が終わったあと、妻と妻の姉が泊まり込みで夜の番をすることになっており、通夜式の後、お風呂に入ったり準備をするために家に帰っていきました。妻の両親は明日の朝が早いので、帰宅。妻の夫、義理の兄は自分の両親を駅まで送っていくために出って行ってしまいました。何が言いたいかというと、僕は子どもたち4人と留守番をしながら弔問客対応を任されました。

近所に住む大ばあちゃんの親友のGさんというおばあちゃんとその娘さんの相手を任されました。最初この人たちがどんな人かもわからないところからのスタートでしたが、自己紹介をして相手のことを伺いました。質問をしながら雑談をしていると、Gさんが昔のいろいろなことを教えてくれました。

「お母さんが子どもの時に亡くなったおじいちゃんのことをよく知っている」と妻や妻の父でもあった子のない人の話を聞かせてくれました。また、妻の実家の歴史や当時の家周辺の様子、大ばあちゃんの友達のことなど、Gさんは昔を思い出しながら話してくれました。

妻も詳しく知らなかった妻のご先祖様のこと。妻が戻ってきてそのことを話すと、とても興味をもっていろいろと質問をしてました。妻のルーツですもんね。

「あんたは、あーちゃんの旦那なら〇〇銀行に勤めとるだら?わたしゃなんでも知っとるよ」とGさんはニコニコしながら言ってきました。転職をしていまは違いますがその通りです。どうも亡くなった大ばあちゃんが話していたみたいでした。

驚きながら、「今は違うけれどそうです」と答えると、娘さんが今何をやっているのか尋ねてきました。保険の仕事をしてることを伝え、話題が保険の話に移っていきました。

(チャーンス。雑談で言葉編やってみよ)

「保険の仕事なんて大変じゃーん。保険に入る人なんてなかなかいないでしょ。銀行の方が良かったんじゃない??」と最初言っていた娘さんも、雑談をしてると「名刺ちょうだいよ」ってなりました(笑)

雑談力×質問力×傾聴力=おしゃべりしてるだけで、相手が勝手に欲しくなる。ここまでになりたい。

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南無阿弥陀仏も、何妙法蓮華経も、全部「真我に目覚めよ、真我に目覚めよ」と言っていると佐藤先生は言われます。僕は仏教のことは歴史の授業で習った程度のことしか分かりませんが、渡されたお経の本を見て並んでいる漢字からどんなことを言わんとしているのか何となく伝わってきました。

お坊さんが遺体に向かって

「南無阿弥陀仏… 南無阿弥陀仏…」

と言っている光景を見て、人生を閉じた時に「真我に目覚めよ、真我に目覚めよ」と言われても…と思ってしまいました。

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また、お経を読みながら、僕の中で凄い発見をしました。

妻の背中の向こうにお父さんとお母さんがいて、お母さんの背中の向こうに今回亡くなったおばあちゃんと既に他界しているおじいちゃんがいて、今回亡くなったおばあちゃんの背中の向こうにもお父さんとお母さんがいて…とご先祖様がうわーっといる、縦のつながりをお経を読みながら感じました。そして、

もし、おばあちゃんがいなかったらお母さんも妻もいない。

あれ、それだけじゃない。妻の姉や甥っ子姪っ子、うちの息子・娘もいない。。。

そんなことを思いました。

おばあちゃんがおじいちゃんと出会ってくれたからお母さんがいる。そう思ったら、今度はおじいちゃんの背中の向こうの縦のつながりが見えてきました。

同じようにお母さんがお父さんと出会ってくれたから妻がいる。お父さんの背中の向こうの縦のつながりも見えてきました。

僕の上の縦のつながりも。会場にいるすべての人の縦のつながりも。

そしてそれらがどこかで重なっている。

ああ、重なっているから“もともと一つ”なんだ…。

そして、今度は子どもたち。例えば、全然別々だった僕の両親と妻の両親が、僕と妻の間の息子・娘では重なっている。そんなことに気がつきました。

ああ、上だけじゃない。下もどこかで重なっていくんだ。。。

会場にいるすべての人がそれぞれ中心に神成瞑想図があり、それが重なっていくという、上手く言葉で表現できないけれど、イメージはこんな感じです(あくまで感覚ですけど。。)

上でも下でも重なってる。

“もともと一つ”だし、また“いつかは一つ”

そんな感じがしました。今このこのときで捉えると個として別々だけれども、もとを辿っていくとどこかで重なるし、またいつかは重なる。

「一つなんだな…」という感覚が湧き上がってきて、暖かい気持ちとともに涙がこぼれてきました。僕の中で「凄い発見をした!」と思いました。

この僕にとっての凄い発見をよりイメージ通り伝えたくて、一生懸命イメージ図まで描いてしまいました^^